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自分の日本語に特にこだわりのなかったぼくは、気分を害するでもなく、喜ぶでもなく、「そんなふうに見えるんかぁ」と思いました。
翻訳の仕事を始めたり、文学作品を読むようになったこともあり、いろんな文章に触れて多少は難しい言葉を覚えましたが、自分では難しい言葉を使ったり複雑な文章を書いたりしないので、未だに小学生の作文のように見えるかもしれません。
翻訳の勉強を始めた頃は、覚えたての表現を使ってみたい誘惑にかられることもありましたが、自分のものになっていない言葉というのは、文章の中で「浮く」んです。他の人の翻訳をチェックしていても、わざわざ難しい言葉を使ってかっこつけてるなぁと思うような「浮いた」訳に出会うことがあります。そういうのは相手によっては見抜かれてしまうので、ぼくはむしろかっこわるいことだと思い、自制してきました。
とはいえ、知らず知らずのうちに、普段読んでいる文章から影響を受けるものです。いっとき、ぼくは明治の頃の文学作品ばかり読んでいて、当時書いていたノートを見返すと、自分でも恥ずかしいくらい古めかしい表現を使っていたり、ところどころ、旧仮名遣いになっていることすらあります。
しかし、一旦は影響を受けても、そこからしばらく離れていると、また自分らしいところへ落ち着くものです。
先日、高松の瓦町FLAG(8階の高松市行政サービス施設 IKODE瓦町)で小学生の作文を展示していて、なかには心打たれる作品がありました。簡単な言葉だけで書いているのですが、感性がゆたかで内容が面白いので、読んでいて心を引き付けるものがありました。この文章の純粋さにはかなわないなぁと思いました。小学生の作文はすばらしいお手本です。